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HOME > 日中友好新聞 > 2017年3月5日号

日中友好新聞

関東軍が支配 偽りの五族共和
かいらい「満州国」建国から85年
平井潤一


 

shinbun

長春にある元関東軍司令部、現在は中国共産党吉林省委員会





 今年の3月1日は、かいらい「満州国」建国から85年目に当たります。
 1931年9月18日、関東軍は奉天(現在の瀋陽)郊外で満鉄線路を自ら爆破する謀略事件(柳条湖事件〈満州事変〉)を引き起こし、それを口実に5カ月で満州全域を占領、翌32年3月1日、「満州国」を樹立、清朝の末帝・溥儀(ふぎ)を元首として「執政」(2年後に「皇帝」に就任)にすえました。



世界支配野望の第一歩



 「満州国」は、日本の敗戦(1945年)による消滅までわずか13年の命でしたが、終始関東軍の支配下にありました。それは、溥儀が「満州国」建国直後に関東軍司令官宛ての秘密書簡で、「満洲国」の国防・治安の日本への委任、その経費の「満洲国」側負担、日本軍が必要と認める各種施設への援助、「参議府」(執政の諮問機関)や中央・地方官庁の役人に関東軍の推薦による日本人登用などを約束したことに示されています。
 関東軍が1936年9月、植田謙吉司令官(当時)名で作成した「満洲国の根本理念」に関する秘密文書では、「満洲建国は、八紘一宇(はっこういちう)の理想を顕現すべき」「世界史的発展過程における第一段階」と規定。「八紘一宇」とは、「世界支配」を意味する言葉ですから、「満洲建国」はその第一歩だというわけです。
 さらに、この文書は、「満洲国皇帝」は「天皇に仕え、天皇の大御心(おおみこころ)をもって心とすることを在位の条件」とし、もし皇帝がそれに反した場合は「即時その地位を失うべき」と、露骨に述べています(以上「秘密書簡」は、みすず書房『現代史資料』⑦「満洲事変」、「秘密文書」は同⑪「続・満洲事変」から引用)。



国際連盟から脱退

 「満州国」建国は、中国国民の強烈な抗議を巻き起こしただけでなく、国際的にも厳しい批判にさらされました。当時の国際平和維持機構「国際連盟」(本部=ジュネーブ)は、英国の政治家リットンを団長とする調査団を満州に派遣、その報告書をもとに1933年2月の総会で「満州国不承認」を決議。賛成42、棄権1(シャム=現在のタイ)、反対1(日本)でした。日本政府は「連盟脱退」を通告、国際世論に挑戦し、中国侵略拡大の道を突き進みました。


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勤民殿、溥儀の玉座(提供=偽満皇宮博物院)



スローガンと逆の現実

 私(平井)は、建国から2年後の1934年、「満州国」の住民となりました。首都・新京(現在の長春)で、小学校1年生の時でした。
 「満州国」の基本スローガンは「五族協和で王道楽土を建設」でした。この国を構成する五つの民族(満州族、漢族、モンゴル族、朝鮮族、日本族)は仲良く平等に手を取り合って理想の国土を築き上げよう、という趣旨でした。
 私は当時、日本が「満州国」を作ったのは正当な事だと信じ込んでいましたが、中学校に進学し、世の中の事を多少とも考えるような年ごろになると、なんとなく「五族協和は本当にそうだろうか」と、かすかな疑問を抱くようになりました。
 それは、毎日の暮らしの中で実際に体験するのは、このスローガンとは逆な出来事ばかりだったからです。
 日本人は他の四つの民族の人びとを見下し、威張り散らす。そして貧富の差は歴然。日本人は白米のご飯が当たり前なのに、他の四民族の庶民はみなコウリャンやアワ、ヒエしか食べられない。服装もボロボロ。私が通った日本人の小中学校に比べて中国人の子どもの学校は本当にみすぼらしい校舎でした。
 新京の建設現場で、日本人の工事監督が太い鉄の棒で中国人労働者を殴りつけ、その労働者が「ギャーッ」と悲鳴をあげた光景を目撃し、胸を締め付けられるように感じたことを今でも鮮明に覚えています。



「再戦」の道許すな

 私は戦後、日本の中国侵略の史実を学び、「満州国」に身を置いた日本人としての反省をかみしめました。今改めて80余年前を振り返りながら、胸に刻むのは「歴史を正視せず再び『戦争する』道を暴走する動きを許すな」の思いです。



(協会参与)








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