「白毛女」の喜児が北方で苦難の日々を送っていた頃、上海にニエ・アル(聶耳)がいた。
ニエ・アル役は二枚目スター趙丹で、1935年にニエ・アルの日本への出発を見送った一人だった。監督は俳優出身の鄭君里(文革で獄死した)。
[あらすじ]
1930年に19歳で昆明から上海に出てきた音楽青年は運送屋で働きながら音楽修業をした。たまたま百花歌舞団の募集に応じてバイオリン弾きとして採用された。中国各地で公演した。
昆明の頃の学友鄭雷電(張瑞芳)が会いにきて、「青春と才能と命を浪費しているわ。あなたは光と熱と響きを放つべきよ」と励ました。彼女の紹介で共産党の地下工作者蘇平と知り合って、上海反帝大同盟の宣伝活動に参加した。
1931年9月、日本は満州事変を引き起こし、32年1月には上海事変が起こった。ニエ・アルは歌舞団とともに前線に慰問に行って「ラ・マルセエーズ」を歌った。この時、劇作家の匡が「われわれにも中国のマルセエーズが必要だ」と言った。ニエ・アルは感動した。
翌年、ニエ・アルは北京で文芸界合同公演に参加したが、政府によって上演禁止となった。ニエ・アルはバイオリンでインターナショナルを弾き、観衆はスクラム組んで合唱した。
上海に戻ったニエ・アルは映画の歌曲、「新女性」「卒業の歌」などを作曲して全国的に流行し有名になった。国民党政府の弾圧が厳しくなり、ニエ・アルの海外脱出が決まった。出発前夜にニエ・アルは映画の主題歌として「義勇軍行進曲」を書き上げた。
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