私は片時も忘れたことはありません

 平頂山虐殺事件は、「日本軍国主義」が中国を侵略し、中国人民を虐殺した動かぬ証拠です。日本の侵略軍に虐殺された肉親や同胞たちのことを私は片時も忘れたことはありません。
1932(昭和7)年9月16日、平頂山村の何の罪もない3,000人あまりの村人が、日本軍の銃剣や銃口のもとに惨殺されたのです。私の父母、妹、母方の祖父母は皆、日本軍に殺されました。私も銃剣で突き刺されましたが、幸い一命をとりとめました。
私の父は炭鉱労働者で、母は火薬工場の労働者でした。私は当時8歳で私塾で勉強していました。妹は3歳で、祖母が面倒を見ていました。祖父は漢方医で平頂山村で薬局を経営していました。私たちに大災難が降りかかってこようとは夢にも思いませんでした。

抗日ゲリラの通過と日本軍による平頂山包囲

 事件前夜の9月15日夜中、東北義勇軍が平頂山を通過していきました。私は寝ていたのですが、ザワザワという音に驚いて目を覚まし、窓から見ると、段平(ダンビラ=武刀)を持つ部隊と長槍を持つ部隊が通ってゆきました。
翌日の朝早く友達と外に出ると、トラックに乗った日本兵が平頂山を包囲していました。私と友達は怖くなって家へ走って帰りました。
「母さん、大変だ日本兵が平頂山を包囲したよ」と母に報告しました。
しばらくして夜勤から戻った父は「村に通じる辻々に日本兵の見張りが立っていて、村にはいるにもチェックされる。しかも、誰一人村から出ることは許され ない」と言いました。このときに隣のおじいさんが、日本兵が村の家を一軒づつ家宅捜索していることを知らせにきました。おじいさんの話では、家々で槍やな たが見つかったことや小麦粉があることを、日本兵は「匪賊(ひぞく)と通じている」「匪賊と通じて銀行から略奪した」と言い、村人を家から追い立てている ということでした。

西山のふもとまで追いやられて

 このとき、私の家にも日本兵がドアをたたき壊して勢いよく入ってきました。「匪賊が来た、大事なものを持って家を出ろ、皇軍が守ってやるから」。
「ここは私の家だから出ていかない」と抵抗した父は銃床でめった打ちにされ、私たち一家は追い立てられる父について家を出ました。歩くのが遅いおばあさ んが日本兵に殴られて鼻血を出していました。大通りは人でいっぱいで、平頂山の村人たちは老若男女、西山のふもとの野原まで追いやられました。現在の遺骨 館の前の山です。
村人たちが口々にこれからなにが起こるのかと騒いでいる中、日本兵は銃剣を持ったまま、ぐっとにらみつけるだけでした。私たちはいつの間にか先頭に立っ てしまいましたが、父は私に「前列はだめだ、早く中の方へ潜り込むんだ」と言うと私たちを連れて人群の中に入っていきました。

「皇軍が君たちを守ってやる」。そう言って日本軍は一斉に機銃掃射を始めた

 人群の中から前方の様子を見ると、軍刀をぶら下げた日本の将校が、着剣した銃を持った4人の日本兵を後に従えて現れました。将校は通訳を通して、「皇軍 が君たちを集めたのは、君たちの命と、財産を匪賊から守るためだ。今に匪賊が君たちを殺し、財産を奪いにやってくる」。日本兵が日本刀でさした東山には3 人――伏せているのが2人、立っているのが1人見えました。3人は匪賊を装った日本兵でした。将校がさらに「匪賊はまだあの東の山にいる」と軍刀を振りか ざすと、パンパンと銃声がしました。立っている一人が撃ったのです。村人が一斉に音のする方を見ると、そのすきに日本軍は機関銃を構え村人めがけて発射し ました。
「伏せろ」というお父さんの声に家族はみんな地面に伏せ、莫さんの頭の上を弾丸がビュンビュンと飛んでいきました。

機関銃の音、飛び散る血の地獄絵

 一斉掃射が始まって、前の方にいた村人たちがザーッと倒れていきました。父が私の頭を押さえつけて「早く伏せろ」と言い、私は父の西側に、父の東側には 母と祖父母が寄り添いました。伏せたとたん、弾が私の頭をビュンビュンとかすめ、前方で地面に打ち込まれ煙があがっていました。弾が私の目の前に伏せてい た労働者のお尻に打ち込まれ、綿入りのズボンから白い綿が煙のように舞い上がりました。集中攻撃を受けた労働者が、私の目の前で二度と動かなくなりまし た。当時8歳の私は「この労働者のように日本軍に撃たれて死ぬのだろうか」ととてもつらくなりました。
祖父が「この世に神はないのか、私が何の罪を犯したというのだ」と叫びました。
父は「私が死んでも、仇をとってくれる中国人がいっぱいいるぞ」と言いました。
このとき、「このまま死んでたまるか」と炭鉱労働者が一斉に飛び出し、一群の人が立ち上がって二、三歩進んだかと思うと、次々に血の海に倒れていきました。
祖母が「ももを撃たれた」と叫び、母が「おまえの妹も殺されてしまった。日本軍は残虐でむごい、絶対いい死に方はしない」とののしりました。父が「おまえは大丈夫だ」と、その光景をさえぎるようにかぶっていた麦わら帽子をかぶせてくれました。
叫び声、泣き声が銃声といっしょになって一面に響きわたり、人の体が粉々に吹き飛ばされ散らばっていきました。

刺殺の恐怖―日本兵の笑い声と子供の泣き声

 やがて銃声も徐々に収まり、泣きわめく声もだんだん弱くなり、銃声はついに止まりました。日本兵の笑い声がし、子供の泣き声も聞こえてきました。麦わら 帽子の隙間から両サイドを見ると、日本兵は南北に一列になり倒れた村人を銃剣で刺しながら、まだ息のある人をみつけると何度もとどめを刺しました。「マ マ、ママ」、泣き叫び突然立ち上がった幼児も日本兵の銃剣に刺し殺されました。
日本兵があと数歩のところまでやってきました。私は目を閉じ、息を殺してじっと死んだふりをしていました。日本兵が軍靴のかかとで私の脇腹を蹴り飛ば し、銃剣で私の左肩をぐさりと刺しました。歯を食いしばってじっと耐えました。何度か刺され、氷のような冷たい痛みが走りました。日本兵が去った後、自分 でも生死がわからず、目を開いて前方を見ると、あたり一面が血の海と化していました。生きていることがわかり、私は再び目を閉じてじっと動かずに横たわっ ていました。
写真:左肩の傷跡を見せる莫さん(1994年3月、撫順・平頂山殉難同胞遺骨館内にて撮影)

家族がみんな殺された

 しばらくして周囲がしーんと静まり返り、子供の泣き声も日本兵のしゃべる声も聞こえてこなくなりました。誰かの「生き残ったものは早く逃げよう」という 声が聞こえましたが、だまされて殺されるのではないかと不安でした。再び声が聞こえて、私は半信半疑で麦わら帽子の隙間からあたりを見ると、日本兵は一人 もいませんでした。起きあがり、初めて肩に痛みが走るのを覚えました。私は傍らに横たわっている父に「お父さん、逃げよう」と言いましたが、父は目を見開 いて私を見つめるばかりで、よく見ると首から血が吹き出していました。次に母がかぶっていた布団をはぐと、母は血だらけになって目をとじ、ふところにはや はり血だらけになった妹を抱いいました。祖父も祖母も死んでいました。
家族がみんな殺され、私は茫然と立ち尽くしていました。「日本兵はひどい、むごい、こんな短い間に家族をみんな殺してしまった。私一人残ってどうすればいいのか」。

死体の山からの脱出

 そのとき再び、「生き残ったものは早く逃げろ。日本兵が戻ってくるぞ」と言う声がして、私はやっと我に返り、肉親たちに最後の一別を送ると無言のまま南 へ向けて走り出しました。ですが、数歩も行かないうちに死体の山に足を取られて動けなくなり、右足の靴も血の海に脱げてしまいました。苦痛にゆがめられた 死に顔が恐ろしい形相で、私はなるべく足下に沿って、ようやく死体の山から逃げ出しました。
5、6人の大人の後について南の方角に逃げましたが、大人たちは途中で向きを変え北の方に走り始めました。私は北の方には日本兵がいるはずだと思い、一人南に向かって逃げ、畑を越えてコウリャン畑の中に潜り込みました。
こうして平頂山村から逃れ、振り返って見ると平頂山村の上空には火が天をついて、煙がもうもうとあがってました。日本兵は火を放ち村人の家屋をすべて焼 き払ってしまったのです。その後、私は知り合いや親戚のところに身を寄せ、最後には父方の祖父のところで育てられました。