保里:それでは皆さん、大変お疲れのところ、もう暫くこの団体の日程に付き合っていただきたいんで すが、これから2時間弱ぐらいの時間を用意しておりますけれども、最初1時間ぐらい、お招きをしました篠塚良雄さんに、ご自分の体験をお話いただいて、後 で意見交換なりをできたらいいかなと思ってます。
ご承知のように篠塚さんは、私たちの団体で今度のツアーを企画したときに、戦争を体験された方と一緒に日本の加害の地を訪れて、追体験したいというたっ ての希望で、中国帰還者連絡会というところに講師として派遣してくださる方をお願いしてあったのですけれど、今回篠塚さんが快く引き受けてくれたという次 第です。
篠塚さんのお生まれは、1923年ですか。
篠塚:そうです。
保里:大正で言うと12年でしょうか。うちの父親よりは3つぐらい若い方だというふうに思いました けれども。千葉県のご出身ということです。2つ大きな体験をされていまして、1つは、今名前が出ました中国帰還者連絡会という会を作りました。一旦中国で 戦犯として撫順あるいは太原の戦犯管理所の方に約1,000名が収容されてた訳ですけれど、そこの中で認罪という非常に重い体験をされたうえで、ご自分の 侵略戦争への反省にたって、帰国後、中帰連という団体を作って、平和の訴えと日中友好にご尽力されている方です。もう1つは、ご存知のように、明日行きま すハルビン郊外にあります七三一部隊、ここに、少年隊員として細菌等の取り扱いに従事をしたという体験をもっていらっしゃいます。この両方の体験をされ て、加害の責任の上で、お話をしてくださるというのは非常に貴重な存在であろうかと思います。本当に、数名しかそういった方はいらっしゃらないと聞いてお りますが、現在お亡くなりになられた方もいらっしゃいますので、殆ど篠塚さんだけではないかと考えております。私と篠塚さんが同室だったものですから、 ちょっとお聞きした のですけれど、中国に度々いらっしゃっているということなんで、それではハルビンの方も何度か行かれましたかということをお聞きしたんですけれど、実はそ んなに行っていらっしゃらなくて、2度かそのぐらいだということでした。やはり、自分の加害の体験の地であるハルビンを訪れるのは、大きな心の負担と言い ますか痛手が、重いものがあるということでした。中国帰還者連絡会の方々は、いろいろな場に出かけてご自分の体験をお話くださっていますけれども、やはり その自分の加害の過去をお話になるのは非常に苦しい中でのお話かと思うのです。その辺のこともどうぞ踏まえまして、これからのお話をお聞きいただければと 思います。それではどうぞ、恐縮ですけれどお願いします。 篠塚:はい。今ご紹介にあずかりました篠塚でございます。この度は、皆さん方のご尽力によりまし て、訪中ができましたし、また、証言の機会も与えていただいて、誠にありがとうございます。この場を借りて、御礼申し上げます。それで、私自身の犯罪行為 については今、団長さんからもお話がありましたが、侵略軍の一員として、もろもろの犯罪行為にかかわわっております。また、その中では特に、七三一部隊の 隊員であったということです。何重もの犯罪をおかしておる、このように自分でも自覚しています。
それで、皆さん方も最近よく耳にすることは、「O-157」という病原性大腸菌の問題です。これについて、誰しも戦々恐々としております。このように、 細菌、これは病原性大腸菌といっても、当時の七三一細菌戦部隊からみれば毒性の低いものです。七三一部隊では、この毒性の高いものを追求すると同時に、そ れを作って、それをばらまいてきた。今、中国の人たちは、「日本軍が三光作戦をおこなった」とこのように言っています。日本の一部の歴史学者は「三光作戦 なんかなかった」とこのように言っています。この三光作戦の「殺し尽くせ」という作戦、この任務を負っていたのが、七三一部隊であったと思います。また同 時にそれに関連した防疫給水部、これです。まあ、私自身下級隊員ですので、その全貌については到底わかりません。しかし私がたどった道、入ってからずっと 自 分のおこなってきたこと、また、見たこと聞いたことを含めて、今から話をさせていただきたいと思います。
石井部隊への入隊試験
私が入りましたのは1939年3月です。まあ、入ったんではないんです。当時私は実業学校に在学しておりました。16歳でした。私たちの学校にも、どう も七三一部隊隊員の募集がきたようであります。とくに千葉県の農村地域の中学校、実業学校、農学校、これらに、集めにきた。私の学校にもあったようです。 卒業生については、そのような勧誘があって、2人が行くことになったようです。それで私のところに、いろいろと世話になっている関係、また、同じ方から通 学しているということで、特に私自身が面倒をみてもらった、先輩から声がかかったんです。当時、石井部隊といっておりましたけれど、部隊長は石井四郎と いって千葉県の人間だった。面倒を見てくれるというから行かないかと、まあ2人より3人行った方がいいだろうと、私はまだ卒業してないし、行けるのかとい う話をしたんです。試験さえ受ければ入れるらしいよと、こういうことです。3月の時点で。それで、試験だと言われて連れて行かれた所は、千葉県の県庁でし た。それでほとんど全員が合格したんだと思いますけれども、集まって来たのは30人ぐらい、おそらく30人全部合格したんだと思います。
石井四郎との対面
それで4月の1日に、軍医学校防疫研究室に集まれ、と、こういう指示を受けました。当時、私は親にも話はしてませんでした。それは、試験を受ければ恐ら く落ちるだろうと、絶対に受かるはずがないと、こういう感じが強くありました。それで、集まれと言われたら親に話さない訳にはいかない訳ですが、親に話し ても親は納得しませんでしたけれども、やはり当時は軍の力の方が強い訳です、親の力より。そのような点で、4月1日、防疫研究室に集合ということで行きま した。みな当時は、着るものだってそんなにないんです。学生服に、学校の校章を取っただけの服装です。それで防疫研究室に行きました。それで私たちが入っ たときの防疫研究室に行く道中と申しますのは、当時は牛込区戸山町、今は新宿区やはり戸山町だと思いますが、これは予防衛生研究所なんかができてる場所で すが、当時は済生会病院、陸軍病院、軍医学校、これらが通用門が一緒でした。私たち、下っ端の入りたては、通用門をぞろぞろ入っていきます。最後に着くと ころが防疫研究室でした。軍医学校にも司令所があったのですが、そこを通って最後のところには入れてくれなかったんです。最初の日は何だろうと思ったんで す。上は戸山学校の軍楽隊です。下は断崖のようになって、練兵所になっている場所です。一番のぶつかったようになった場所。で、入れて貰えないでいる間 に、中から人が来て入れてもらえました。ビデオなどで見られた方はご存知だと思いますけれど、そのような建物です。比較的、防疫研究室という名前からは、想像もできないようなでかい建物でし た。3棟ぐらい大きな建物がある、こういう場所でした。そこで、私たちは仕事がすぐ与えられた訳ではありません。少し中国語を習ったり、細菌学の基礎とい うか培養器の作り方ぐらいは習って、そこで初めて部隊長石井四郎と対面しました。彼がハルビンから来たようでありまして、当時大佐でした。一見、一風変 わっているというのがすぐわかりました。彼も少将、中将になるとだいぶ自分の服装に用心するようになりました。貫禄をつけようとし始めた訳ですけれども、 大佐の時期は、一般の当時のいわゆる軍人というイメージからは外れている感じでした。すべてが、一見、野放図といいますか変わっているという印象を受ける 人間でした。私たちに対して一番最初に言った言葉は、この中に顔色の悪いのがいると、まず、寄生虫の検査をしろと、もう1回徹底的な身体検査のやり直しだ と、ついてきた副官にそのような話をしました。私たちは当時、やっぱり軍医だなぁという感じを受けた訳ですが。それと同時に私たちに対しては、ハルビンは いい所だと、行く時期については後から指示するから、お前たちは石井部隊の少年隊だと、少年隊員だと、勉強すれば大学に入れるし、それ以外は下士官だぞ と、まずこのようなことを言い渡されました。これが、石井との初対面でした。
そのような中から当時私自身の受けた感じは、結局、細菌戦を組織し実行し殺戮の限りを尽くす部隊の部隊長だという感じは到底受けませんでした。これが、軍医学校防疫研究室です。
ハルビンへ
それで、私がハルビンに着いたのが5月12日でした。5月の9日にノモンハン事件が始まったその直後です。それで私たちが着いて、一番最初に目に入った のは「関東軍司令官の許可無き者は何人といえども立ち入りを禁ず」という小さな立て看板が一つ立っているだけです。明日、現地に行ってみられるとわかると 思います。濠はもうなくなっていますけれど、まわりは濠が掘られていまして、鉄条網が張りめぐらされていました。それで、あとで衛兵所になったのですが司 令所がありまして、そのとき中に入ると、隊員のタイムカードこれが全部差し込んである。それで入っていくと、カードをガチャンと押して、入る時間を押すよ うな装置になってたようです。何で部隊長が軍医なのにこんなに厳重にしているのかなぁと、まず、それも受けました。また、普通のところですと、部隊の名前 を表示してあるはずなんですが、それがぜんぜんないんです。それででかい建物、今、証拠隠滅しちゃってなくなりましたけれども。一棟から上にでかい「ロ」 号棟があった訳ですが、その辺の建物はできておりました。
七三一部隊での教育
私たちは少年隊ということで教育を受けると、こういうことになりました。当時、隊員宿舎はできておりませんでした。今、平房に行かれると、建物の外に宿 舎になっていた場所、現在でもありますけれども、それはできてないので、私たちは、今学校になってます、一番手前の建物その左側に内務班を作って生活する ようになった訳です。それでまず、一番最初に教育を受けたのは、着いて次の日だったと思います。配属将校からの教育がまずありました。それは、軍機保護法というものでした。 軍の機密を保護する法律とこういうことになりますか。それで、くべこべと、この地域は特別軍事地域に指定されている場所なんだと、この上空は日本の軍隊の 飛行機も飛ぶことのできない場所なんだぞと、こういう話がまずありました。それと、見るな聞くな言うな、これがこの部隊の鉄則なんだぞと、確かに上空を飛 行機が通れば、ロ号棟の中に実験する人たちを収容しているのが全部見える訳ですけれども、後でわかりましたけれども、当時は何があるのだろうと思ってまし た。
次が陸軍刑法。やはり配属憲兵から習う陸軍刑法でした。これは、ここの部隊から逃げ出すと敵前逃亡と同じように処刑されるぞと、処刑するぞと、こういう ことでした。かいつまんで申し上げますと、敵前逃亡というのは、当時の日本の侵略軍にとっては一番重い罪だったと思います。戦闘中に逃げ出せばその場で処 刑すると、されると、これが鉄則であった様ですけれども、その様にするんだぞと。当時その話を聞きまして、ますます判らなくなりました。どんな秘密がある んだろうと。こういう疑問でした。当時いわゆる「マルタ」とか、人体実験にする人たちを収容しているとは最初は判りませんでした。そのようにして第一の教 育が行われました。
しかし、私たちに潜在的にあったのは、何か秘密があれば、やり甲斐のある仕事が待っているのではなかろうかと、こういう幻想をもったことは否定できませ ん。あとあと色々な残虐行為に対する教育を受けるというふうにその元には、やはりそのような秘密に対する期待感、こういうものです、やはりどんな命令が あってもおこなっていくと、命令さえあればやっていくんだと、このようなことが元になっていたような気がいたします。これが第一の教育でありました。
「防疫給水部」の全容
それと同時に、私たちは、いわゆる細菌学の教育、毒物の教育、またドイツ語だとかそんなものもありましたけれども、そういうものもあるのと同時に、防疫 給水の教育を受けました。七三一部隊、当時の石井部隊も関東軍防疫給水部という固有部隊名でありました。こういうことからと思いますが、防疫給水の教育、 この部隊の任務だと言われたのは、今でも覚えております、「防疫給水部は第一線部隊に跟随し、主として浄水を補給し直接戦力の保持増進を図り、併せて防疫 防毒を実施するを任務とする」これが部隊の任務だぞとこのように言われました。部隊の任務はこれなんだぞ、これなんだぞと。それとその編成というか組織 の、防疫給水部の組織でありますが、それは毒物検知、水質検査、これは石井・勝矢式毒物検知器という優秀な毒物の検知器があるんだぞと。これは実習もやり ましたけれども私にはわかりませんでした。恐らく大したものじゃなかったんじゃないだろうかとこういう気もしますけれども、まあ、青酸なんかはそれでもわ かるはずですので。それと防疫斥候、疫学調査。それと浄水と給水ですが、浄水についてはです、石井式衛生瀘水器、これがあると。これが車載用と駄載用(注:馬による運搬用)と 携帯用とあって軍の通称からいえば甲乙丙丁なんだと、このようなものがあると。この生命は濾過管だと、これは珪藻土とでん粉を混ぜて焼いたものなんだと、 ミクロコックスといわれる細菌の中でも一番小さい細菌も通さないんだと自慢げな話もしていました。しかし、この濾過器は後で分かってきたんですが、この濾 過管、水をこす濾過管自身が、やはり細菌弾、生物爆弾にとっては必要なものだった訳です。一定の通気性が必要であった訳なんですが、この濾過管は、当初東 京で作って、東京というか日本の国内でつくっておりました。それを後では細菌弾との関わりの中からハルビンの浜江駅の近く、第三部に属する場所でつくりま した。そこでその濾過管を焼き始めた訳です。これも今行くとまだその辺に積まれてあるかもわかりません。この防疫給水でありますが、ここの地域(北京市天 壇公園)の近くにありました。今でもその建物はあろうかと思います。これは華北防疫給水部です。それと、華中防疫給水部、これは南京にありました。もう一 つは広東です。またいわゆる太平洋戦争、シンガポールにもできました。これが、主要な防疫給水部ですが、私はこの防疫給水部の細菌戦の実戦についてはわか りません。しかし、細菌戦の実施部隊としての役割、これらが負っていたことは否定できない事実です。私の知っている範囲でもです。七三一部隊は飛行場を 持っています。常に南京との往復、これ一番頻繁に行っておりました。東京と南京です。このような点から、防疫給水部、表面は水を濾して、兵士に飲ませるん だと、これが部隊の任務だと言いながら実際は細菌戦の実施部隊であった可能性は充分持っております。とにかく七三一部隊がその研究部門を通じて実際面につ いておこなって来たことはやはり間違いありませんし、先ほど申し上げました防疫給水部の隊長というのは、皆、石井の配下でした。一度は石井部隊又は軍医学 校防疫研究室に関わっていた者、これが全部隊長となっている。またその要員も、防疫給水部、東京の陸軍軍医学校防疫研究室から派遣されていると、こういう 面が多くありました。これも否定できない事実ですが、今まだはっきりとその犯罪行為については、明確にはなっていないというのが実状であろうかと思いま す。この辺は、後々は、当然明らかにしなければならないし、明らかにされるものであろうと、このように確信をもっておりますけれども。菌株の運搬それで今日、私がお話をしますのは、七三一部隊で自分の行った行為です。このように教育を受けながら私自身、私たちと言ってもいいかもわかりませんけれ ど、少年隊は、実習という名目でもう入ってからすぐ、いろんなものに関わり合いを持ってきました。さっきもちょっと触れましたけれども、ノモンハン事件と いうのがありました。私たちがノモンハンに使った病原菌の大量生産に動員されたのは恐らく7月頃だったと思います。前期の少年隊というのが20名ぐらいチ フスにかかって、もう動ける状態じゃないというのが出ておりまして、その中で私たちがその中に組み入れられたものだと思っております。私たちはまだ、実際 に細菌の植え付けとか掻き取りとかこういう仕事にはつきませんでしたけれども、私が命じられてやったのは、研究室に行って、この病原菌を大量に作るために 使う「スタム」と 言っておりましたけれども、菌株です。私が命じられてやったのは、研究室に行って、この病原菌を大量に作るために使うスタム、これは試験管に入ってまし て、3%の普通寒天、これ細菌培養のため通常使われる物、細菌をちょっと知っている方ならわかると思いますが、3%の普通寒天培地を斜面にしまして、そこ に細菌を塗り付けて、それにブイヨンを入れまして、液体ですね、滅菌したその操作は一般の細菌学と同じでありますが、それがスタムであります。元になる 菌。それを私は研究室に取りに行くのが仕事でした。でき上がった頃に取りに行くんです。
赤痢菌の運搬
それで、当時私たちが入った当時の石井部隊、七三一部隊なんですが、まだ部課制です。それほど人数も多くありませんでした。それで、各研究室の主任研究 員の名前を取って何々班といっておりました。まあ、赤痢をやってるのは藤井班だとか、瀬戸口班はコレラ菌だとか、山口班は細菌弾だとか。このように研究員 の名前を取って作っていきました。私は藤井班に行って持って来いと言われて、「ああ、これは恐らく赤痢だな」と、その当時はわからなくて後からわかってき た事ですけれども。ノモンハンのときにこのように大々的に作りはじめました。
石井式培養缶を使って
それがどのように作ったかというのは、またもし時間がありましたらハルビンで証言したいと思いますけれども、石井式培養缶と いうのが使われていました。これは今ハルビンに行かれて罪証陳列館に行かれると現物があります。それを使うと非常に大量生産ができるわけです。一つの缶で 10g以上の細菌ができます。普通培養時間が20時間ですから、操作時間をいれても20数時間で大量の細菌、まあ普通の細菌はできました。通性好気性菌、 破傷風菌とか結核菌などです。もちろんリケッチャ(発疹チフスの病原体)ウィルスを除いてで すが、普通のコレラ菌とかペスト菌とかチフス菌、パラチフス菌、普通の病原菌と言われている細菌はこれで大量に作ることができました。そのようなことから 当時作った細菌というのは、チフス菌、パラチフス、赤痢菌、これだったと思います。このチフス菌については、水に弱いという点を確かめるため、1939年 の4月にこの実験を松花江でやったと聞いています。これは水の中でどのくらい時間が経つとそのチフス菌が死ぬかと、そういう実験を松花江でやったと聞いて います。それでチフスは確かに水の中にいれると感染力がなくなるわけですけれど、ほかの細菌はそんなにかわらないということだろうと思います。
ノモンハンでの細菌缶
それで、ノモンハンのときにたまたまだったと思いますけれども、その作った細菌の処理の下働き、これを命ぜられてやりました。どのようにやったかと申しますと、掻き採った細菌は、500g入りのペプトンの 空きビンに入っていました。ペプトンというのは、細菌を培養するときに一番多く使います。そのことからペプトンの空きビンは多く出るのですが、500g入 りの広口ビンです。これを滅菌したものにその菌が入っている。これを、無菌室内でブイヨンで薄める訳です。ブイヨンとペプトンと肉エキスと食塩が入って、 ペーハーを調整して、それで、薄める。濃度がどのくらいだったか、ちょっと記憶はないんですが、適当だったんじゃないかなあという気もします。それを石油 缶に入れまして、最後に酸化防止じゃないかと思いますけれども、グリセリンを入れました。石油缶に入れたものを、箱に入れまして、2缶を1つにしまして、 木の箱にドライアイスを入れまして、普通の菰で結わえ、荒縄で結わえ、このような物を作った訳です。これを、私たちは、少年隊員も含めた部隊でノモンハン の時に将軍廟まで持っていきました。どんな方法で持っていったかと言いますとハイラルまでは汽車で行きました。きっと、汽車が一番安全だったかもわからな いんです。まさか細菌を汽車で運ぶと、菰をかぶせたものです、それも16歳か17歳のものが2人か3人ついて、それで運んでるとは誰しも思わないから、そ の裏をかいたのではないだろうかと思いますけれども、ハイラルまで汽車で行きました。当時、もうハルビンは暑くなっていましたが、デッキに置いて、風通し はいいんです。で、夜になると夜行になりますから、そう暑くはないんですが、それで運びました。私は1回それを運びました。多くの者が7月以降運んでいる 訳ですが。その細菌が、どのように使われていたかということについてですが、これはノモンハンのときです。七三一部隊は細菌の大量生産をやる人間を除くと、皆ノモ ンハンに行ってきました。さっきも申しあげました防疫給水部、石井式濾水器を使って水を濾して兵隊に飲ませるという、これは看板ですが、あそこはホロンバイル草原で 水のないところですから、また炎天下ですから。その水を濾して兵隊に飲ませるのに、大部分が行って、それと同時に碇挺身隊というのが行っていました。これ は碇常重という者なんですが、彼がずっと二部、細菌戦の実験と実施部隊の責任者になっていた者で、ノモンハンのときも彼が隊長で何人かを連れて行きまし た。そう人数は多くなかったようですが、それについていった者の話を聞いた訳ですが、この缶を破って、ハルバ河の上流のホルステイン河に投げこんだんだ と、これだけだよと、こういう話でした。しかし、「投げこんだだけだよ」で済む話じゃないはずなんです。確かに缶を投げておけば、水に流れて、水が細菌に 汚染されることは間違いのないことですけれども。
ノモンハンでの細菌戦と勲章
このノモンハンについてはその先があります。ノモンハンが決着して9月の末か10月の初めだったと思いますけれども、ノモンハンから引き揚げてくる日本 の兵隊の中に、伝染病患者が多数発生しました。パラチフスでした。今度は私たちも動員されてやったのは、便の検査です。便の検査で夜も寝ないでです。そこ に行って、私なんかはろくな仕事もやらされないで、セロハンに包んだ便を広げる仕事が私たちに与えられたものでした。ちょっと細菌学を知っている者が、培 地に塗って細菌を見つけだす訳ですけれども、その仕事に日本の兵隊がだいぶ掛かりました。ノモンハンについてはまだ先があります。その次の年になってから、いわゆる論功行賞、勲章の授与がありました。このとき、碇挺身隊に加わった者、下士官 将校、これらについては金鵄勲章が授与されています。金鵄勲章っていうのは、当時の最高の勲章で、一番人殺しを多くやった者に与えられる勲章ですが、それ が、この細菌をばらまきに行った者たちに与えられた訳で、石井四郎はそれと同時に陸軍最高技術有功賞というのを手に入れました。まあ、なぜ知ってるかって 言いますと、披露宴がありました。大宴会をやったようですが、私らまだ飲めない時期でしたけれども、いまだに記憶があります。これがノモンハンの時期で す。当時でもおかしいなと思いました。日本の兵隊があれだけ感染してなぜ金鵄勲章だろうかと。これは今にしてみれば、確かにノモンハンのときは、細菌戦、 実験戦としては成功したと、日本に兵隊が感染したにしてもです。細菌戦実験の結果は成功だと、こういう事であったと思います。それ以降、細菌の大量生産と いう方向が大々的に行われるようになってきた。私、自分の経験から、このように思います。
ノミの増殖
いろいろありましたが、年を追って申しあげますと。1940年春、私たちは今度はノミの増殖を命ぜられました。田中・篠田班と言っていました。篠田って のは予研の昆虫部長を逃げ出してやってきた男です。ロ号棟の3階です。暗室がありました。そこに木の台二段ぐらいです。せいぜい胸の高さまでですけれど、 これも石油缶がありました。身動きができないほどの小さなかごですが。それにネズミを入れまして、その暗室の中へ置くんです。私たちが命ぜられてやったの は、死んだネズミをみつけて生きたのと取り替えることです。非常に暑かったです。自分の体に感ずる温度は40度ぐらいあったんじゃないかと思います。3、 40分も入っていたらすぐ飛びださないといけないような状態で、相当な湿度もあったんだと思いますけれども。まあ、恐らく高温の中で、一般の適温というの はあるかもわからないけれども、高温でノミを増殖するというのは一定の理由があったんだと思います。これはペスト菌とのかかわりあいの問題だろうと思うん ですが、その解明については、これから専門家の方々に解明していただく問題ではないかと思いますけれど。私たちはそれを命ぜられて、3、40分入ると出て きて、汗びっしょりになって、七三一当時の石井部隊のドリンク剤、重曹と酒石酸を入れて、砂糖を入れて水で溶かしたものをガブガブ飲んではまた入る、これ が私たちがやった仕事でした。
ノミとネズミとペスト
少しそよ風が吹くころかそれ以前だったか、恐らく3か月か4か月しか経たない時期だったと思いますけれど、今度はそのノミを集める仕事、これをやりまし た。どのようにやったかと申しますと、私はそのものずばりのものであったと思うんですが、浴槽です。前はよくあったんですが、寝て入る浅いものです。浅い といっても50cmぐらいありますか。それで、片側に浴槽ですから穴があります。それで片側から赤い電球がつくようになっている。ノミっていうのは赤い電 球から逃げ出す習性を持っているそうですけれど、そのようなことから、ネズミを、生きていれば他の缶に移して、そのモミをひっくり返し、棒でかきまわしま す。そうしますとノミとモミは分離されて、こちら側の穴のある方には液量器を置いてあります。それでもなお動かないのは、ドライヤーです。それで追いたて る。そうやって液量器の中に落としていきました。ノミは相当増えていました。ノミを何ccという単位で量った、このように記憶しております。このノミは何 に使われたかということについては、私は実際にはおこなっていない訳ですけれども、やはり自分たちのつくったものについては聞きたいので聞きましたが、な かなか教えませんでした。しかし、それがわかってきたのはペストの事柄にかかわってからです。ペストの教育のなかで、漏らしていくというか、教えることは しないんですが、そういうなかでわかりました。ノミはその多くが、ネズミにいちばん寄生します。それとノミは死んだ動物からは、すぐ離れる習性を持ってい ます。ペストにいちばん感受性の高い動物はネズミと人間なんだと。そのようなことから、ネズミにペストを感染させるということは比較的簡単です。菌数計算 をやって、注射すればペストに感染させられます。そしてノミがたかって、そのまま飛行機から落せばネズミは死にます。ネズミが死ねば他の動物に、人につく と。こういうことが、その中でいろいろと出てきます。それ以外にいろいろな方法を使ったと思います。綿につけたり、モミごと飛行機から落っことしたりで す。私たちが作った細菌が何に使われたか、これは後で分かったんですが、いわゆる寧波作戦です。寧波で多く使われた細菌、私たちが作った細菌が、使われて いた。寧波の人たち、その近辺の人たちの証言と私が当時やっていたことは、完全に符合します。それ以降、ノミの増殖を専門的に始めました。私は、ノミの増 殖については、それ1回だけでしたけれども、これを専門的に行なう部署ができてきました。
関東軍特別演習(関特演)の頃
それから、1941年になりまして、関東軍特別演習というのがありまして、おそらく7月の末だったと思いますが、中国の東北地域に兵力を集中させまし た。兵隊をたくさん招集しました。私たちが当時聞いていたのは、南を撃つのか北を撃つのかと、こういう話でした。このような時期があったわけですが、それ で七三一部隊も、このいわゆる関特演の中に組み込まれたわけです。当時、私は盲腸で入院していたんです。そのためにこの関特演から除外されました。多くの 私と一緒に同期で入ったものは、この時点で、先程も申し上げましたように他の防疫給水部に行っていました。一部の人間は、後で聞いた話によりますと、大連 の衛生研究所に行きました。大連の衛生研究所から台湾に行った、台湾からシンガポールに行った、それで、シンガポールの防疫給水部に配属されてる訳です。 このように七三一部隊で細菌戦の訓練を受けた人間がこのような場所に散って行ってる訳です。その後にまた七三一部隊には隊員が入ってきました。軍医がまた 入れ替わっていく。こういうようなことがありました。
病原菌の大量生産-柄沢班の任務
それで、私がいた少年隊というのがその時点で解散になりました。私は第四部第一課柄沢班というところに配属になりました。第四部第一課柄沢班というとこ ろは、病原菌の大量生産、これを任務とするところでした。この場所はロ号棟の1階、これが主とした仕事場でした。ロ号棟の1階、特別班に入る入り口の、 ずっと広いその辺ですが、そこで、作戦命令があると、病原菌の大量生産を始めました。私がそこに配属になったとき、化学兵器取扱者を命ず、という命令を受 けました。それで化兵手当なるものをくれました。25円であったと思いますけれども、給料が43円ぐらいのときでした。その手当が25円。将校になると 60円でしたけれども。このように化兵手当、化学兵器取扱者を命ずと、当時その命令を受けたときに、毒ガスでもやらされるのかなと思ったのです。毒ガスは 兵器として使われるけれども、細菌を完全に兵器としてみるのかどうか、まだはっきりとはしませんでした。しかし、当時、細菌を兵器としての観点を持ち、 扱ったことは事実です。このような点からも言えると思います。まさか細菌兵器取扱者という言葉ではなかったけれども、そうであろうと思います。それでさっ きちょっと触れましたけれども、作戦命令によって行うということによってです。そのロ号棟の1階というのはすごい規模のものでした。培養基をとかす溶解釜 なんですが、半自動になってましたけれど、1つの釜で1トンの培養基が作れるようになっていました。また、高圧滅菌機は明日でも石井式培養缶を見ていただ くとわかるんですが、それが1つの滅菌機に30缶入るようになっておりました。30缶が1階に1つありまして、それが三棟という手前の所に10機ありまし た。30缶で10機、1回に300缶の石井式培養缶。それで、その裏の五棟という所と、ロ号棟の裏側なんですが、そこを私たちは三棟ともう1つは五棟と 言っていましたけれども、まあロの形をしているからロ号棟と、当時ロ号棟と言ったかどうかっていうのは、私はちょっとわかりませんけれども、私たちは三 棟、五棟と言っていたんですが、そこの五棟にも同じような装置がありました。また、それには孵卵器が必要ですが、そのロ号棟の右側が、全部孵卵室でした。 これは自動調整できる孵卵室です。細菌が大量生産できるかどうかっていうのは、高圧滅菌機の使用能力と孵卵室の使用能力、これによって1回にどれくらいの 細菌ができる かどうか決定できると思うんですが。孵卵室はそのような装置を持っていました。通常、私たちが聞いたのは、石井式培養缶、実際に全部動かせば、相当の人数 は必要だけれども、1,000缶は操作できる。そうしますと、1,000缶を動かすとすると、その1,000倍になります。通常は300缶、多くて500 缶位を1つの作戦で製造したことは間違いない事実でありますけれども、私たちが配属になったときは、そのようにしてつくりました。また、同時にパラチフス とかチフス菌とかそういう細菌を培養することは非常に少なくなってきました。それよりももっと猛毒の細菌、コレラ菌、チフス菌、脾脱疽菌などの細菌を作り 始めました。脾脱疽菌は人畜共通伝染病といわれる動物も殺せば人も殺すというものです。
細菌戦実験-安達の試験場
それで、いわゆる太平洋戦争になって、日本が制空権をだんだん失っていきますけれども、その時点で輸送の点、また細菌戦としての効力の問題から、細菌弾を実戦段階で使おうとします。実験については安達(ア ンダー)の実験場、これが大量殺戮の実験場として使われた訳です。ハルビンから150kmか200kmぐらいの所だと思いますけれども、ここで細菌弾の実 験をやりました。30余名、40名ぐらいの方々の命を奪いました。細菌の毒力試験、これでも多くの方を殺害していますが、この細菌弾の実験については、こ の安達の実験場では非情な殺戮行為が行なわれていることは間違いのない事実です。
細菌戦実験-農安
それと同時に、もう1つは先程ちょっと触れましたけれども、スタム、菌株という問題を指摘しましたけれども、農安(ノンアン)というところがあります。長春(チャ ンチュン)から近いところですが、農安というところはペストがよく出るところだと言われていました。最近明らかになったことは、七三一部隊の自作自演だろ うと、こういう点が明らかになった場所ですけれども、この農安にも私は何回か行っております。いちばん最初に行ったのは、40年の7月から行っています。 ここで私たちが命ぜられてやったのは、まず死んだネズミを集めることでした。それを実験室、テント場のところへ持っていきまして、腹を割いて内臓を切っ て、これをいわゆる平板培地に塗って、このなかからペスト菌を純培養して部隊に持っていきました。それと生きたネズミ、これも捕まえました。これには建設 班なるものが行っていまして、囲いをして、患者が出た家とか、そういうものに火をつけて燃やしてしまう、こういうことです。それでネズミを捕まえるのが目 的です。このようなことをやりました。やはりこれもペスト菌、新鮮なペスト菌を取り出そうとしたのです。いわゆる毒力の問題は継代培養といって、培養基か ら培養基に移していくとだんだん毒力がなくなってしまいます。当時聞いていたのは、結核のB.C.G.については継代培養をやっていて毒性をなくしたのが B.C.G.なんだと。こういう理屈もあろうかと思うんですが、確実に毒性を高めるためには人体を通すことが必要であると。これにも人体実験がかかわって います。確かに農安では私自身はこういうことを命ぜられてやりましたけれども、そのほかに高橋班というペスト班の班長自身、これは彼が軍医団雑誌に出しているも のですけれども、人体実験をやったとは書いてはいませんが、彼はペストの皮内反応ということについて、農安で行ったことを書いています。これは軍医団雑誌 で明らかになっています。このようなことで住民を代償にした人体実験も行っています。
特別班での人体実験
そのようななかで私も人体実験にかかわり合いを持つようになりました。これは42年、七三一部隊に入って3年何か月かたった後ですけれども、それに参加しました。これはどこの場所で行ったかと申しますと、特別班です。石井四郎の兄が特別班の班長でした。この班員というのは、秘密の箇所、いわば七棟、八棟の建設にたずさわった者たちです。石井の故郷の千葉県千代田村加茂という所、そういうことから一時期、加茂部隊と 言った時期がありましたけれども、加茂出身者かその隣の多古出身者。これが、この秘密の箇所を作った者たちです。ほとんどは農家の者たちです。大工とか左 官であった者は建設班とか工務班に行った訳ですが、そういう土工のような仕事で入って来た者が、今度は特別班の班員になった訳です。この特別班というのはどんな格好をしていたかというと、看守のような役割でもありますし、確かに中に収容していた人がちょっとでも抵抗すれば射殺する銃 も持っていたと思うのですが、屈強な人たちでした。白衣を着て戦闘帽をかぶって長靴をはいて拳銃をぶら下げている。これが通常のスタイルでした。私たちが 白衣というイメージからは七三一の白衣っていうのは違っていた訳です。この特別班に入るには、特別班出入許可証と いうのが必要でした。だから一定の年数が経つ、幹部クラスは別です。大学から入ってきた者たち、大学の講師だとか助教授クラス、七三一に多くいて第一部が ほとんどそれであった訳なんですから、彼らはもう来たときからそこに出入りしている。また、それに出入りしたくて来たのかもわかりませんし、そういう所 で、私なんかは3年何か月たってから下働きのために連れて行かれました。
ついていって私たちがおこなったのは、自分たちの作った細菌の毒力試験でした。とにかく殺傷力の高い細菌を作るんだと。動物実験も多く行いますが、動物 実験では埒(らち)があかないと、言えば抵抗力の問題、抗体の問題、ワクチンの問題、予防接種の問題などとの絡(から)みがあるからだと思いますけれど も。その生体実験に加わりました。それを特別班の班員、この腕力と銃の力で屈伏させる。それで血液を採って抗体を調べます。
そのあとで私たちがやったのは、当時七三一で開発し作った優秀なワクチンというのはペストのエンベロープワクチンと 言ったと思いますけれど、このワクチンを注射したもの、それと他の国のペストの予防接種液。これらを使いまして、予防接種をやる。まず、1人だけは死ぬ。 あとの四人の人たちにそのようなワクチンを注射します。今度は日にちが経ってから抗体を調べます。それから菌数計算をしましたペスト菌を注射しました。そ のような経過をたどりました。やはり一番最初にペストの症状が出て瀕死の重体になられた人は、予防接種をやらなかった人です。それを見て、連中は喜んでい ました。

《写真》生体解剖の動く模型 北京・中国人民抗日戦争記念館
特別班での生体解剖
その解剖にも私は連れて行かれましたけれども、私が一番最初にこの解剖室のどこで解剖したかというと、七棟、八棟というのがあります。今、その証拠にな るものは全部破壊しちゃってない訳ですけれども、ロ号棟が3階建てで、そのなかに八棟、七棟とありました。七棟に実験中の人と女性を監禁していました。そ こで解剖を始めました。私が最初に命じられたのは、デッキブラシとホースの水で身体を洗えと、こういうことでした。私は一番最初の人、接種しない人につい ては当時も一番最初に会っているんです。しかし、私たちに対する燃えるような憎しみの表情、これだけは忘れなかった訳ですけれども。そういう人が、そのよ うなペストに感染する。解剖台に特別班の班員によって連れてこられると、人が違うという感じを受けました。黒くなっている、真っ黒になっている、のけ反る ようになっている、しかし、まだ息があったことは間違いないんです。私は、洗えと言われてデッキブラシで洗いました。それで顔はどうするのか、これで拭く のかと言ったんですけれど、それでいいんだと。私たちは皆、防菌しているんです。眼も眼鏡で塞いでいるので、動作で表す訳なんですが、それでやれと。私は 初め躊躇(ちゅうちょ)しましたやはり。やれ、やれと顔からなんか、目をつぶってデッキブラシで最初は洗いました。しかし、2人、3人になってくると、も う平然とやった訳です。それで1人が、聴診器を確かに心音があるから、1人は解剖刀を持つと、あと3人が助手なのですけれども、聴診器をはなすと同時に、解剖刀でまたたく間に 腹を裂き断ち切りました。そうすると今度はもう1人が内臓を取り出しました。七三一で病理を専門的にやっているのはともかくとして、細菌を扱っている人間 は病理的な知識もないし、関心もなかったかもわからないけれど、とにかく細菌さえやっていればいいという感じだったと思いますけれども、内臓を取り出し て、部位だけは明らかにして。今度は白金耳(はっきんじ)で す。まあ白金耳というのは細菌を培養するときに使うものなんですが、それをブンゼン灯で焼いては食塩水で冷まして、切った内臓を突き刺して、今度は培地に 塗って、注射した細菌と同じものが出てくるかどうかというのをまずは確認すると。もう1つは増菌培地という中に入れて、どの部位にどれだけの菌量がある か、これらを調べる訳ですが。まず、細菌を扱うそのような解剖、なぜ生体解剖かと申し上げますと、私たちが聞いていたことは、人は死ねばすぐ雑菌が増え出 すんだと、腐敗菌です。これによって今までの実験がパァーになっちゃうんだぞと。この聴診器を外すタイミングって難しいんだぞと。こういう言い方でした。
平気でそういうことが言えた
このようにして2人、3人と、彼らは予防接種した者が死ねば喜んでたんです。乾杯してたんです。自分たちの作った細菌の方が強いんだと。こういうことで す。このようにして私たちの実験、今思うとこのようなことが平然とやられていた。夜遅くです。こういう実験をやっていると夜帰るのがたいがい遅くなった訳 ですけれど、そうしますと、風呂の中ではやはり同じようなのがいます。お前んとこは何本倒したと、このようなことが平然と人の命を奪ってですね、殺してで すね、平気でそういうことが言えたんです。それだけもう、人間性を失ってた。今思うと、自分ながら身の毛のよだつような思いがする訳です。七三一については、まだまだ私の犯罪行為っていうのは多くある訳なんですが、そのような点をこの場を借りて証言させていただきました。また、明日現地で証言の機会を与えていただければ幸いだと思いますけれど。まず、ひとまず終わらせていただきます。(拍手)
保里:どうもありがとうございました。今お話しいただき ましたけれども、時間の関係もあって、それ以外のこともおいおいお話していただきたいと思うんですけれど、今のお話をうかがって、何かお聞きになりたいこ とがあれば、この機会ですので是非補っていただきたいと思います。ご質問でもよろしいかと思うし、またご意見でもいいんですけれど、今の証言とか七三一な どにかかわって日頃考えているとがありましたら、ここで出していただけたらと思うんですが。
篠塚:ちょっと私、追加を。先程申し上げて、証言しておいて、もしその現場を見ていただけたらと思 いまして、あえて発言させていただきますけれど。私が七三一に入った時期について申し上げましたけれども、まだ建物が完全にできていないとお話したはずで ありますけれど。1939年の6月頃だったと思いますけれども、私たちは第一棟の一番最初の建物なんですが、そこの一番左側に内務班を作って生活して追っ た訳で、夜中にです、非常な騒動が起こった訳です。騒動というより、私たちの寝ているところへライトをまともに当てられて、帯剣の音と鎖を擦る音が非常に しました。私たちは何事かと思って、まだそういうあれを知らない時期ですから、それで皆、目を覚まして音のする方に行こうとしたんです。そしたら、2階の 方に下士官が生活してました。それと憲兵が来まして、「マルタ」を運搬中だと、出るなと、こういうことを聞いて、初めて聞いたのが「マルタ」という言葉です。その時に、今思うと、一番大勢の人を連行して来たのではないかと思います。
ちょうどこのロ号棟の中の七棟、八棟が完成した時点です。その時に、今ハルビンの奮闘街という所、今児童公園になってその近くに、七三一の白樺寮と いう寮がありました。今、簡易ホテルになっていますけれども、その地下が監獄であったということです。で、上は憲兵だとか特別班の班員の宿舎になっていま した。そこに監禁しておった人たちを、ロ号棟の中の建物が完成したので運び込んだのではないだろうかと、このように思っています。それ以外にも何回か、そ ういうのには遭遇していますが、その時が一番多くの人たちが連行されました。もしハルビンに行かれて時間がありましたら、その簡易ホテルになっているその 地下はそのままに残っています。ぜひ一度その辺も見て、犯罪、日本の侵略軍七三一部隊の犯罪の一面を刻んでいただければと思います。ま、あえて発言させて いただきました。
保里:いかがでしょう。ご質問、あるいはご感想でもいいんですけれど、どなたか。
(質問):今お話されたことなんですけれど、地下にあった所というのは旧日本領事館の地下のことですか。
篠塚:いや、そうじゃないんです。領事館の地下にもそういうのがあったと言うんですが、七三一の1つは吉林街分室というのがあったんです。これはもう1つは白桃寮、 白樺寮というのがあって、その白樺寮というのが主として憲兵だとか、特務機関じゃないかと。特別班の班員の宿舎になっている。だからそこに、監獄作って収 容して、それで監視の役もした。それでロ号棟が完成したので、こちらに運んだ。それでその前は、前にあったのは五常県の背陰河に中馬部隊というのが最初に あった訳ですが、それからあとは、浜江駅の近くの香房から来まして、そこは後に七三一部隊の三部になっています。私たちは当時、南棟と言っていたんです が、これは後に防疫給水部の三部になったところなんですが、そこでもその前はそういう実験をしたのではないかと言われておりますが、その確証は私にはあり ません。背陰河時代というのがありまして、背陰河から南棟と言ってた場所に来て、そこに来たときはすでに平房の建物の準備、準備って言うより工事を初めて いたんじゃないかと思います。13年(1938年)、12年(1937年)の終わりか13年、14年には完成していますんで。昭和で申し上げましたけれど も。
(質問):先程のお話、私の聞き違いかもわかりません が、七三一部隊の犯罪性がまだ明確になっていないということで、いずれ明確にされるであろうというお話がありましたけれども、これだけいろいろ物証がある ように私には思えるんですが、それでもその犯罪性は明確になっていないのかどうか、それから、なっていないとしたら、いずれ明確になるであろうではなく て、だんだん風化する前、今日現在です。まあ、どういう人たちが明確にするために努力をしているのか、今やらないと、風化してなくなっちゃうんじゃないか と心配するんですが、その点についてはどうですか。
篠塚:その点についてなんですが、七三一の犯罪は、なぜ今になってという疑問があろうかと思いますけれども、これについてはアメリカが非常に関与しています。これは私は当時日本にいなかったのでわからないのですが。まず、石井その一党のミドリ十字を作った内藤良一、 彼が立役者だと言われていますけれども、アメリカとの取引、免罪符をもらうために、今までの生体実験を含めた細菌戦のノウハウの資料をアメリカに引き渡す ことによって東京裁判から免訴されたといういきさつがあります。その資料が、明らかにはなりつつありますけれども、その点で七三一に関しては、まだまだ具 体的などんな実験をやってどんな結果を得ているのかその辺の問題だけは残っていますけれど。それと、先程申し上げました防疫給水部です。これは、日本の政 府が知っているはずなんです。恐らく防衛庁あたりにその資料があるはずなんです。それが公開されれば明らかになってくる。七三一に関する問題も、防衛庁 に、アメリカの方では日本に渡していると言っているはずですので、日本が隠している防衛庁に多くのものが入っているのではないかと言われていますけれど。 そうしますと、先程私が申し上げました防疫給水部の任務ですが、彼らはこれで逃げきるんです。第一線部隊に跟随し、水を供給するんだという逃げ口上です。 だから隊員自身が、もう証言も、部分的にはあるようです。だからこの辺のところを日本の政府を問い詰めていくより他ないと思います。今でもおかしな発言が 閣僚の中から出る日本ですから、必死になって隠すんだろうと思うんですが。まあ、そのように思います。私たちにも力及ばない点が多くある訳なんですけれど も。
保里:まあ、七三一部隊に限ってお話をされている訳ですけれど、 僕なんかは専門では全然ありませんので詳しいことは知らないんですけれど、僕が七三一のことを知ったのは、最初は森村誠一さんの『悪魔の飽食』三部作が ありますよね、あれを読んだときに、石井四郎というのをトップとして満洲のハルビンの非常に特殊な部隊が特殊なことをやっていた、こんなおかしなことも あったのかと、非常に猟奇的な意味での関心しかないというようなことが何年か前にはあったんじゃないか。その後、陸軍の予防研究所ですね、ここを通じて医 学界から若い研究者を呼び込んで、日本の医学界全体がかかわってくるというあたりが次第に解明されてきたのと、この間、七三一部隊展なんかも全国的に行われて、その辺のことと戦後のミドリ十字などをはじめとする製薬会社と予防研を中心とするような国家、厚生省全部とは申しませんけれど体質とかそういった所が、日本人の問題としてある程度明らかになってきた。
最近、実際に細菌戦が各地で実戦に使われたという解明がかなり進んできているんですけれど、ただまだまだ解明していかなくちゃいけない問題点というのは まだまだあるんじゃないかと感じているところなんです。特にさっき篠塚さんもお話になりましたけれども、七三一に関係した上級の軍人ですね、この辺がソ連 が侵攻してくるとなるとすぐに命令を受けて引き揚げてしまうと、そういった素早い動きの所にはかなり日本の軍隊の中央部といいますか、そういったものがか かわっていただろうし、政府がかかわっていただろうというそのあたりが解明されていないのが1つあるんじゃないかという感想を、まあただの感想なんですけ れど思った次第です。
今後質問かたがたで結構なんですけれど、七三一に関係してどういうあたりを日本人の問題としてあるいは課題としていかなくちゃいけないのか、それについ て戦争の真実を伝え広めていく私たちとしてはどんなところに力点を置いて運動していくのか、そんな所までいくと難しくなっちゃうんですけれど、ただの感想 でいいんですけれど、日頃考えていることがありましたら、発言を継ぎ足していただきたいんですが。
(質問):ちょっとお伺いしたいんですが、私も体験者の 方々のお話を聞くときに、自分がその立場だったらやめることができるかなと、非常に怖い思いをしているんですけれど。先程、死体じゃないまだ生きている人 をデッキブラシで洗う時に最初、躊躇されたというお話をされたんですが、ノミの培養とかいろいろやらされているうちに、これはやはり大量に人を殺すために やっているんだということはおわかりになったと思うんですが、どういうお気持ちでいたのかなあというのが一番知りたいのですが。たとえば、上官の命令だか ら従わなければという事だったのか、それとも手柄をたてて上に行きたかったのか、当時のお 気持ち、いろいろあったと思うんですが、そのあたりをお願いいたします。
篠塚:当時の私が最初に七三一に入ったその経緯については先程申し上げましたけれども、最初から 知ってて入った訳ではありませんでした。しかし、さっき申し上げましたように、秘密があればあるほど何か、やりがいのあることが待っているんじゃないだろ うかという幻想です。これはやはり、その秘密の中に食い込んでいければ何か自分が得取るんじゃないだろうかと、こういうことと結びついています。だから口 では国のためだなんだと言っていますけれど、やはり自分の出世という問題、これは給料を少しでも良くなろうということ、これと密接にかかわります。
今、私自身もこんな人間だったのかと思うのはです、結局、特別班出入許可というのが出たときに、私がどんなことを思ったのか、当時はもう特別班に入れば 人体実験の下働きをやるんだということがわかっていながら、やはりそこに幻想があるんです。やはりその中にいれば、エリート、そう全員が入れないところに 入れるようになったという何とも言えない心理が働いています。これはやはり、ずるずる、ずるずると悪の中に入っていって、最初はだんだんはこういうことを やることによって少しでも残っている良心の疼きがあったんですが、それがだんだんなくなっていく。確かにそれがある訳なんです。
それから七三一の部隊訓というのがある訳なんです。石井が作ったのです。「科学に国境なし、科学者に祖国あり」という言葉。それが、特別班の入り口に 貼ってあったんです。それと「自分のおる所を深く掘れ」とかですね、そんなのが部隊訓としてありましたし、また、私は常に、ABCDの包囲の中にあるとい うことで、やらねばならないと、この連発です。
このような教育の中、また私たちが細菌学だといって教育を受けたのは、最初から生きた菌で実験をすると、また、動物解剖実験を主としてやらされると、この残忍性です。まず動物を殺すことから平気になっていく。
もう1つあるのは、アジアの人たちに対するいわれのない蔑視観です。これらのものがグルグル巻きになってやってきたと、そのように私自身は反省しておりますけれども。
(質問):どうも長い間ありがとうございました。七三一 部隊にかかわった人たちは、秘密は墓場まで持っていけということを言われてなかなか証言していないということもあると思うんですけれど、篠塚さんはもう 10年以上も前から証言活動をされているというふうに伺っているんですけれど、証言されるんきっかけとなった事柄と言いますか、それから右翼の妨害とか、 証言した後そんなの嘘だということを言われたこともあったとか聞いたんですけれど。証言をするきっかけと、それから七三一部隊展というのをすでに全国的に やったと思うんですけれど、その中で一番大きな収穫っていうのは、七三一部隊展にかかわった 人たちが新たに証言者として証言したという、その中でそれこそ秘密に七三一部隊展の人たちに電話をかけて来てこれは絶対に名前を出さないとか、非常に神経 を使いながら証言者が出たという話を聞いているんですが。篠塚さんの体験を通して、今回私たちにの中にもちろん戦後ずいぶんたってから生まれた若い人たち も多いんですが、そういうご自分の体験を通しての若い人たちへのメッセージをお聞きしたいなと思うんですけれど。あともう1つ、時間があればそのようなだ んだん平気になっていって鬼のような状態になった篠塚さんが撫順の戦犯管理所でご自分の罪に気づかれて人間性を回復されてた個人的なきっかけ、向こうの方 々の対応などについて何かあればお願いしたいなと思うのですけれど。
篠塚:どうお答えしていいのか。私自身、私たちって言った方がいいかもわかりませんけれど。中帰連 の仲間たちが証言する。これはやはり撫順または太原の戦犯管理所、ここで本当に人道的な扱いを受けましたし、また人間としてはどうあるべきなんだろうか と、これを教えられたというより、その中で自分自身がくみ取ってきたと、こういうことに尽きると思います。本当に人間ってこうあるべきなんだと言うことを 確かに教えられました。
小学校から戦争、戦争
具体的に申すと、これは直接関連ないと言われればそれまでなんですが、私自身はバレーだとかバスケットだとか全然知らない。私たちは小学校からはっきり いうと人殺しなんですね。戦争、戦争ですから。勝ったといえば提灯行列をやる。勝ったということは人殺しをたくさんやったということなんですから。それで 提灯行列にも引っ張り出される。まあ、人殺しに出征しに行く。それを送りに行く。このようなことをやりました。また学年が上がってくると今度は教練です。 毎日、毎日、教練が主な日課になっていく。学校へは配属将校に殴られに行くようなものです。私はトロかったから殴られたのかもわからないんですが。1つ は、配属将校の点数を稼げは幹部候補生になれると、兵隊にいってそんなに苦労しなくても幹部候補生になれると、こういう点でも釣る。まあ、叩くのと持ち上 げて釣るのと、そのようななかでずっとやってきました。文化活動、体育活動を通じて
ま、確かに私自身の変わってきたのは、戦犯管理所の中でです。人間的な扱い。本当に、バレーとかバスケットとか平和的な球技、こういう中からも学びまし たし、また、文学的な作品も多く見せてもらいました。また、映画も『自転車泥棒』だとか『どっこい生きてる』だとか『箱根用水録』だとか、皆さん方も年配 の方は見られたこともあると思うんですが、日本のでも外国のものでも、中国の映画も見ましたけれども、そのような文化活動、体育活動を通じて、平和ってい うものを身につけましたし、また人間ってどういう生活をすべきなのかと、こういうことも教わりました。また、国際情勢、私たち自身は国際情勢だとかそんな ことも何も教えられない、また、ある面、無関心であったのかもわからない。そういう資料もなかったのかもわからないですけれど、中国に行って国際情勢とい うものを、世の中っていうのはどう動いているんだと、今、世界はどうなっているんだと、その戦犯管理所にいてわかってきました。そのようなもろもろのこと が私たちを変えていきました。それで日本に帰ったら真実を訴えると、侵略軍の犯罪行為を暴露することによって、二度とふたたびそのような道を歩まないような国にしようと、こういうこ とを最初からやってきたんですが。やはり私たちは最初の時期は受け入れられませんでした。中国で洗脳されてきたから、そういうことを言っているんだと。洗 脳されているんだと。それで日本の平和運動っていうのは被害だけが全面に出ている、加害発言なんてのは押さえられちゃうんですね。こういう時期がありまし た。それでも私たちはずっとおこなってきた訳なんですが。
若い人たちを見直した
それで、私は七三一部隊展で若い人たちを見直しました。本当に日本の若い人たちって何の関心もないんじゃないだろうかと、こう思ってましたけれども、そ うじゃないんです。やはり、そうじゃないんだっていうことがわかりました。実際、部隊展に集結してきた人たちは若い人たちです。本当にいちばん熱心に勉強 したのも若い人たちです。なぜそのような状況を作ってきたのかというと、やはり日本の政府、まあ文部省にしても厚生省にしてもみんなそうですが、そういう のはみんな隠しているんですね、真実を隠している。こういうことに対してやはり若い人たちがどう考えていいのかわからなくしちゃって、こういうふうにも思 います。やはり真実というもの、事実は事実としてはっきりさせる。これがいちばん必要な事柄じゃないだろうかと、私たちは撫順のそういう生活の中から、1 つの回答として感じています。二度と再びというより、日本はアジアの人たちとの友好を深める以外に生きる道はないという感じすらも今は持つ時期になってい るんじゃないかという気もします。回答になっていなかったかもわかりませんけれども。撫順に行ったら、私たちの生活の全部がありますので、日本よりも多くの資料が戦犯管理所にありますので、是非見ていただきたいと思います。私たちの変 わっていく過程が、ずっと出てくると思いますので。私たちも最初は凄いもんでした。やはり。抵抗に抵抗を重ねてきた訳ですから。
保里:今日は本当にありがとうございました。本当におつかれさまでした。もう一度篠塚さんに拍手を。(拍手)。ありがとうございました。
