第1回(1980年)~17回(1996年)
・第17回(1996年) テーマ=軍隊と性暴力
この年は、中国人戦争被害者訴訟の原告が相次いで来日し、戦争展でも元「従軍慰安婦」の李秀梅さん、劉面煥さん、強制連行事件被害者の劉連仁さんを取り上げ、「戦争は未だ終わっていない」との認識を新たにしました。また、「沖縄」コーナーを設け、翻弄され続けた沖縄の過去から現在までを展示しました。会場では手作りの「カンカラ三線」(空きカンで作った三線)が展示され、実際にカンカラ三線の演奏も披露され、歌声が会場を包みました。
・第16回(1995年)
戦後50年という大きな節目を迎えたこの年は、例年以上に取り組みを強めた年でした。8月の開催に先立つ6月には、足立・大田・品川の各戦争展と共催で「日本人のアジア差別意識はいかにつくられたか」とのテーマで学習会を行うなど、展示を形作る上での土台作りと言える企画を行い、この取り組みは展示の充実に確実に結びついていきました。マスコミの取材も多く、特に朝日新聞は「若者が作る戦争展」をクローズアップし、スペースを大きく割いた記事を掲載してくれました。
また、中国人戦争被害者訴訟の原告である劉連仁さん、李闘蓮さんが会場を訪れて激励の言葉を寄せてくれ、実行委員一人一人の戦争展への思いがより強いものとなりました。
・第15回(1994年)
この年は、永野法務大臣が「南京虐殺は中国側のウソ」と発言し、国内外の激しい批判を浴びました。繰り返される政治家の妄言に対し、戦争展はあらためて侵略戦争の実態を明らかにし、特に中国侵略の象徴的事件である「南京大虐殺」の特別展示を行うとともに、この戦争をどう後世に伝えていくべきかを訴えました。また、展示パネルをきちんと記録に残しておこうと、会期終了後に展示パネル一枚一枚を写真に残すようになったのが、この年からでした。
・第14回(1993年)
7年間にわたって実行委員長をつとめた富永正三さんが実行委員会を離れるなど、実行委員会の体制が最も厳しい年となりました。これを克服したのは、それまでの13年にのぼる蓄積と、それを継続した実行委員とその活動を支えた賛同者の人たちの力にほかなりません。この年から実行委員長をお願いした永富博道さんは、開催当日も終日会場に詰め、夫妻で手作りのお弁当を実行委員のために用意し、若い世代の奮闘を支えてくれました。
展示会場の正面には、元「従軍慰安婦」として日本政府の証言聴取に臨んだ李福汝さんの写真を掲げて、今なお清算されないままになっている日本の戦争責任に対し、自分たちが何をなすべきかを訴える展示を行いました。
・第13回(1992年)
「湾岸戦争」以後、日本の果たすべき「国際貢献」が声高に叫ばれ、自衛隊を海外へ派兵しようとする動きが強まるなか、戦争展は「もう二度と銃はとらないと誓ったあの夏…『戦争放棄』を世界へ、未来へ」をキャッチフレーズに、日本の侵略戦争の実態と、その反省に背を向け続けてきた日本の姿を明らかにし、平和憲法を持つ日本こそが世界平和への道筋を指し示すために行動する必要があることを訴える展示を行いました。また、展示に至る日常的な取り組みとして学習会が活発に行われ、戦争展の機関誌『いまじん』が定期発行されるなど、実行委員会の足腰の強化がはかられた年でもありました。
展示会場や『いまじん』には、平和への思いを託した俳句や短歌が飾られ、実行委員にも課せられた宿題の一句に、展示パネルの検討以上に頭をひねる姿もありました。
・第12回(1991年)
この年、正面写真に使用した「中国人刺殺」の大写真は、1981年の戦争展で 入口の階段上に展示したのと同じもので、その残酷な内容から、二度とも使用に反対する意見が出されるほどでした。日本軍による虐殺の瞬間をとらえたこの写 真は、日本による侵略行為とその加害性を象徴しているものともいえ、戦争展活動の理念を象徴する写真だと言えます。また、日中友好協会が企画製作した「証言-侵略戦争~人間から鬼へ、そして人間へ」が完成し、会場で上映されました。この反響は大きく、体験者の証言の前にはほとんどこのビデオを上映。書籍コーナーではビデオ52本、ブックレット250冊が販売されました。
・第11回(1990年)
「平和のための戦争展」はこの10年、戦争体験世代がその体験を風化させまいと、自ら企画し、展示パネルを作り、証言を行ってきました。10年間、一貫して侵略戦争の実態を訴え続けてきたその活動は、一定の役割を果たしたと言えるでしょうし、他の戦争展活動にも大きな影響を与えてきました。しかし、高齢化の進む体験世代が中心となって活動していくことは、もはや困難な状態になっていました。
こうした過渡期を迎えるなかで、体験者と戦後世代の双方から、「若い世代の手で戦争展を作っていってほしい」「これからは伝えたい世代ではなく、知りたい世代が中心となって戦争展を作りたい」との声があがり、そのよびかけに応えて結成されたのが、90年度戦争展実行委員会でした
この年の「若者が作った戦争展」と題して行われた展示会には、6000人を超える入場者がつめかけました。しかも、アンケート集計では、参観者の約半数が「通りがかり」での入場という驚異的な数字を残して閉幕しました。
こうして、開催の断念も念頭において取り組まれた「体験世代から戦後世代への継承」が実現し、体験者が後方支援にまわった新体制がスタートしました。
・第10回(1989年)
この年、昭和天皇が死去したことを受けて、テーマを「昭和史の中の天皇」とし、天皇の戦争中の語録を写真とともに展示し、その戦争責任を明らかにしようとしました。また、薬害エイズで問題になった「ミドリ十字」と七三一部隊との関係について取り上げ、七三一部隊に関係した医者たちが、戦後の日本の医学界の中心に座り続けている事実を告発しました。
・第9回(1988年)
当時の実行委員長でもあった富永正三氏の半生を追った展示を行いました。「初めて捕虜の首を斬った時、自分も人間でなくなった」富永氏が、戦犯管理所での体験を経て、再び「人間」に戻っていく様子を、顔写真を用いた展示パネルで描きました。その表情の変化は、明らかにその心の変化を映し出しており、評判になりました。会場内には、戦時中の生活を再現した「四畳半」が出現し、この部屋を訪れた人は、珍しそうに一升びんの米をついたりしていました。
また、この年からチラシには漫画やイラストを採用し、以後これが定番となっていきました。 ●戦時中の生活を再現した四畳半の部屋。
●富永正三さんの半生を追った「人間、鬼……そして人間へ」のパネル展示。
・第8回(1987年)
盧溝橋事件50周年という節目にあたったこの年のテーマは「抵抗」。過去の事実を知った若い世代から「では、我々は何をなすべきか」との声があがり、戦前・戦中の国内の反戦運動、ナチス政権下の「白バラ」抵抗運動や戦後の平和を求める闘いを示し、今後の指針を見出そうとの展示を行いました。開催中に1人の右翼が、「こんなものはでたらめだ!」と 怒鳴って侵略の事実を示す写真のキャプションを破るというハプニングがありましたが、実行委員が駆けつけるよりも先に、展示を観ていた体験者の人たちがそ の右翼を取り囲んでやりこめるという一幕は、体験世代が持つ戦争に対する怒りと平和への強い思いを痛感させるものであり、その体験と思いをいかに受け継ぐ かを若い世代が課題として真剣にうけとめるものとなりました。
・第7回(1986年)
「現代の戦争にも目を向ける」という視点から、イスラエルの爆撃で犠牲となったパレスチナ人の遺品や、砲弾の破片などを特別展示しました。なかでも、虐殺現場で見つかった子どもの小さな靴の展示は、大きな反響をよびました。「アジアから見た日本」と題したコーナーでは、ベトナム戦争下で金儲けに走る日本の商社の話や、前年に取り上げたシンガポールの華人虐殺の事実を発掘するきっかけとなった「血債の塔」をめぐるエピソードを、漫画なども使って展示し、新しい角度から日本の加害性を訴えました。
この年のテーマ「戦争責任」は、その後の戦争展の主題となっていきました。 ●中島正人氏がシンガポールの「血債の塔」の前で体験したエピソードを漫画化したものを展示した。
・第6回(1985年)
この年から「平和のための戦争資料展」との名称を「平和のための戦争展」に改め、新たに呼びかけ人制度を設けることになりました。この年は若い世代の実行委員の奮闘で、宣伝の目玉にと渋谷駅頭でもモンペ姿で チラシを配るという企画を実施しました。物珍しさもあって新聞などにも大きく取り上げられましたが、「モンペ姿」が先行してしまい、紹介記事には戦争展の 「せ」の字もなかったり、「国防婦人会」のタスキをしていたために「右翼」と勘違いされるなど、若者たちの努力に反し、入場者数の増加にはつながらない残 念な結果となりました。展示では、シンガポールでの華人虐殺についてジャーナリストの中島正人氏が初めて報告(本を出版)したのを受けて、その写真を初公開などしましたが、悪天候の影響も合わさり、入場者数はそれまでの過去最低を記録しました。 ●階段の片面に様々な“反核”ポスターを展示しました。
・第5回(1984年)
入口の階段にトマホークの実物大模型を展示し、会場前を通りがかる人々の目をひきました。展示では、日本軍が中国で毒ガスを使用した事実を、毒ガスの実物標本や、演習の様子をとらえた写真で訴えるとともに、ベトナム戦争でアメリカ軍が「枯葉剤」を使用した結果生まれた奇形児の写真なども展示し、化学兵器の恐ろしさとその非人道性を明らかにしました。
・第4回(1983年)
ナチスが政権をとってから50年目にあたったこの年は、「アウシュビッツ」を特集。さらに現代の戦争にも目を向けようと、イスラエルによるレバノン人・パレスチナ人の虐殺事件も取り上げることになりましたが、協力を要請した「アラブ連盟」は、「イスラエルはアンネ・フランクやアウシュビッツを中東での虐殺の免罪符にしている」と、 アウシュビッツの展示に重きを置いた私たちの姿勢を厳しく問いました。かつては被害者の立場にあったユダヤの国イスラエルとアラブ世界との対立は、善意だ けでは通用しない世界情勢の厳しさを突きつけ、平和運動の責任と難しさを認識させるものとなり、この経験は、以後の戦争展活動に生かすべき貴重な教訓とな りました展示会場には、母子の等身大のマネキン人形を入れた七三一部隊のガス室を再現しましたが、ガスに見立てたドライアイスがうまく働かず、これまた大きな教訓となりました。 ●原爆が投下され、その影響が拡がっていく様子を電球の灯りを使って表そうとしましたが、灯りがぼやけたりで装置がうまく働かず、ちょっと失敗でした。
●七三一部隊の「ガス室」を再現。「マネキンがきれいすぎる」と来場者から怒られる一幕も……。
・第3回(1982年)
1982年は、七三一部隊関係の資料を「資料展」が都内で初めて公開しました。この年は、七三一部隊の実態をあばいた森村誠一氏の『悪魔の飽食』と、資料展の第1回目から会場で加害体験の証言を行っている中国帰還者連絡会の発行した『三光』がベストセラーになっていたこともあって、マスコミの取材も殺到し、その効果もあって、日曜日には午後だけで2000人以上の入場者がおしかけ、入場規制をせざるを得ないほどでした。会場内では七三一部隊の石井四郎部隊長の遺品展示や、石井の運転手をしていた越定男氏の証言もあり、6日間での総入場者数約1万人は、歴代1位の記録です。
しかし、会期終了後、会場にも展示し『悪魔の飽食』にも掲載された写真の一部がニセモノと判明するというアクシデントがあり、以後の写真使用において大きな教訓を残した出来事でした。
また、ジョン・レノンの「イマジン」「ウーマン」などの曲を、呼び込みのために流し始めたのもこの年からでした。少し、懐かしいですね。
・第2回(1981年)
1981年からは会場を山手教会に移し、「熱い」または「暑い」戦争展の歴史がスタートしました。この年は、会場で「すいとんの試食」を行いました。「すいとん」に対する反応は様々で、若い世代からは「案外おいしい」との声も。それもそのはずで、会場では戦争当時と同じく「ふすま」を原料にしたものと、うどん粉でつくったものとの2種類を出したのでした。
上映室では、日本の侵略の実態を描いた8㎜映画「語られなかった戦争――侵略」が上映され、反響をよびました。
またこの年、日中友好協会で作成された展示パネルが侵略戦争の実態を訴えるものとして活用されました。この展示パネルはこれ以後も、各地の戦争展などで活用されました。
・第1回(1980年)
日中友好協会創立30周年を記念して企画され、1980年8月にお茶の水の「主婦の友ビル」で第1回が開催された「平和のための戦争資料展」は、複数の平和民主団体の参加により実行委員会が組織され、その活動をスタートさせました。目玉企画として、戦時中の生活用品などの資料提供をマスコミを通じて呼びかけたところ、各地から千人針や日の丸に記した寄せ書き、配給切符などを始め、多くの物品が送られてきました。
せっかく提供を受けた品物を紛失しては大変と、赤坂にアパートを一室借り、夜毎現れる南京虫の襲撃に苦しみつつも、実行委員が毎日交代で泊り込んで番をしました。
会場は比較的奥まった所にあったものの、当時東京でこうした大規模な展示会はまだなく、そうした目新しさもあって、新聞・テレビ各局でも大きく取り上げられ、最終的に5000人を超す入場者が訪れました。
マスコミでは主に遺品の展示が大きく取り上げられましたが、日本の加害性や、天皇の戦争責任問題を追求した展示姿勢もまた大きく評価されました。●「血染めのハンカチ」=提供して下さった方が、中国の戦闘中、負傷した際、傷口を縛ったもので、血痕が生々しい。
●〈エピソード〉ガダルカナル島から持ち帰られた遺骨を展示したところ、その前で手を合わせる人が多かったため、急遽(きょ)お線香台を用意しました。ところが、煙と香りが場内と主婦の友ビル全体に、空調を伝って蔓延(まんえん)し、苦情が寄せられるという一幕がありました。