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HOME > 日中友好新聞 > 2014年10月5日号

日中友好新聞

周恩来が愛した中華料理店

1世紀超えた 漢陽楼≠フ昔と今

 

2012年4月、漢陽楼前で周恩来の姪や甥と記念撮影する
和田総料理長(後列左から2人目)と5代目の林さん(その右隣)

 

 

日本中国友好協会本部のある神田神保町に程近い神田小川町に1世紀を超える歴史をもつ中華料理店「漢陽楼」がある。日本留学時代の周恩来、それ以前には孫文も訪れたこともある日中友好ゆかりの店である。




辛亥革命の年に開店


中華人民共和国の総理だった周恩来は、1917年神田神保町の中国人学校・東亜高等学校予備校に留学した。漢陽楼は2011年に100周年を迎えた辛亥革命と同じ年の1911年に開店した。先に「周恩来展」が開催された際見つかった日記に「1918年1月27日、友人と漢陽楼に食事に行った」との記述があり、漢陽楼との関わりが明らかになった。
  明治大学、神田古書店街に隣接する漢陽楼(注参照)の看板は当時のまま(上写真)。それは「漢民族に陽が当たる館」を意味するという。店内には留学中に「祖国を救うために」とその心情を詠んだ周恩来の「大江歌罷掉頭東」や「雨中嵐山」などの詩も掲げられている。また会計処には周恩来の日記の日本語版なども置かれている。甥や姪の来訪記念の色紙も飾られている。いまも中国の要人や明治大学の中国関係者がよく来るという。

開店当時の漢陽楼

 

 

 

孫文・周恩来の好物看板メニューに

 

日清戦争(1894〜95年)後、近代国家を目指した日本への留学熱が中国で高まり、1896年に来日した最初の留学生が明治法律学校(現・明治大学)に学んだことから神保町界隈に中国人向けの学校や留学生寮が集まるようになった。漢陽楼は浙江省寧波出身の顧宣徳さんが貧しい留学生の食事や宿を提供する場所を作ったことから始まり、1911年に正式に料理店としてスタートした。
  顧さんは、孫文が来日した際に講演会場への送迎も行い辛亥革命を支援した。胃腸の弱かった孫文が好んだ「孫文粥」や、周恩来の郷里の好物だった「獅子頭」(ひき肉に調味料などをまぜ拳(こぶし)大(だい)に油で揚げて蒸したもの)は「店の看板」としていまもメニューにある。



和田総料理長(右)と5代目の林さん


「店の伝統」を受け継いで日中友好に貢献


 現在の漢陽楼は、父が料理長だった和田康一総料理長(代表取締役・59歳)と5代目林勇さん(47歳)が受け継いでいる。和田さんは「この一帯には多くの中国人留学生がいて故郷の料理を食べたいが行くところがなく、時流に乗って開店した漢陽楼を利用した。学生の経済事情を考慮して料理はどれも安かった」と、父などから聞いた話をしてくれた。
  和田さんの母は漢陽楼で働き、父と結婚した。「小さいころから父母の働く様子を見ていて自然にこの道に入りました」と話す。
  林さんも「ここで生まれ育ち、亡き母であり、先代(3代目)林松英の意思を継ぎ、『伝統のある店』をしっかり守り継いでいかねばという思いを強くしています」と口元を引き締めた。
  最後にふたりは「日中関係が悪い今のような時こそ周恩来先生などの日中友好の先駆的な人びとと縁の深い漢陽楼に足を運んでいただきたいですね」と結んでくれた。
(宣)

 


  ▽漢陽楼=東京都千代田区神田小川町3〜14〜2、TEL03(3291)2911、FAX03(3291)2912、メール=info@kanyoro.com 
ホームページhttp://kanyoro.com/

 

 

 【注】現在の漢陽楼は、1967年(昭和42年)に転居し新築したもの。
  周恩来が訪れた頃の漢陽楼は、現在の神保町古書店街の山田書店(白水堂)辺りにあった。現在の店に、当時の店の看板など思い出の品が多数飾られている。中国国歌を作曲した聶耳も同じ神田神保町の綿徳ビル(当時は平屋の日本家屋だった)に下宿していた。

 



 

 

 


 


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