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日中友好新聞

2010年4月25日号1面
「生存者証言」聞き取りで訪中団
愛知県連「大府飛行場への強制連行」調査

 日中友好協会愛知県連は「侵略戦争の事実追及どこまでも」という協会の方針にもとづき、戦時中に県内の大府飛行場で過酷な労働を強いられた中国人強制連行の実態解明のため、今年3月、湖北省と河北省に調査団を派遣、生存者4人から聴き取りを行いました。

 

80歳超す4人を訪ねて

 

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楊印山さん(中央)と
息子さん、伊藤さん(左)

 1943年から、日本政府と35の企業が約4万人の中国人を強制連行し、全国135事業所で強制労働させ、約7000人が死亡しました。
 河北省石門(石家荘)と山東省済南の収容所から北海道に連行されていた480人が、1944年11月に愛知の大府飛行場(三菱重工名古屋航空機製作所知多飛行場)に送り込まれ、45年6月に再び北海道に戻るまでの7カ月間に、死者5人、負傷者19人、罹病者109人を出しました。
 09年9月に第1回慰霊祭を開いた日中友好協会愛知県連と大府飛行場中国人殉難者慰霊祭実行委員会は、今年3月3日から6日間、中国の湖北省と河北省に調査団を派遣。一行は研究者を含めた7人で、河北大学の劉宝辰教授の案内で4人の生存者に会いました。

 

虐待で頭に陥没の跡も

 

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楊貴発さんの家族から
帰国時の毛布を

 現在湖北省黄石市に住んでいる唐燦さん(85)は、大府での生活を語りました。
 ミカン畑が多い丘の上の「上野」という所で、一つのテントに30人が地面にむしろを敷いて寝たこと、飛行場の拡張工事のため朝5時に起こされ6時から穴掘りやモッコで土運びをしたこと、食事はエンドウの粉を蒸した堅いパン2個かドングリのような雑穀のマントウで、便秘と下痢に苦しんだこと、婦人と子どもをよく見かけたが、男性は少なかったこと。
 米軍機の空襲を何度も目撃し、日本の敗戦と帰国は近いと確信した、と語りました。
 石門から連行された8割が八路軍関係者で、残りは国民党関係者。共産党の指導部を確立し、ミカンを取ることを禁じるなど、規律が徹底していたと証言しました。
 武漢の楊貴発さんは、今年1月83歳で亡くなっていました。遺族が父から聞いた話を語りました。
 日本の軍人に頭を殴られ頭骨が陥没していたこと、青島からの貨物船では、伝染病を恐れた日本軍が弱っていた連行者を海に投げ捨てたこと、大府では朝7時から夜8時まで働かされ、北海道では寒さで関節炎になったこと、帰国時には体がボロボロだったが、すでに母が亡くなり生活が窮乏を極め、ただ1人の働き手として働くしかなかったこと、などです。
 「文化大革命」時には、日本で働いていたということで、役職を奪われ食堂の配膳係になったり、家族ともども武漢から下放されたと語りました。帰国時に支給された毛布が大切に保管されており、歴史の重要な資料として借り受けてきました。
 河北省の?台市に住む王連喬さん(83)は、「中日両国の平和が第一です。中国を侵略したのは権力をもっていた勢力であり、日本人民ではなかった」と切り出しました。
 事務所で炊事場から食事を運ぶなどの下働きをしていて、コックから日本人が残したおこげをもらって食べたこと、共産党の上司の指示でその仕事を続け、日本人が読み残した新聞を届けていたこと、事務所にいた2歳年上の優しい女性事務員をはっきり覚えていること、北海道では18歳の日本人指導員が、赤紙が来た時にわざと雷管を爆発させて腕を失ったことなどを語りました。

 

空腹に耐えかねて

 

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楊印山さんの家族

 河北省定州市の楊印山さん(84)は楊貴発さんのいとこ。農民で9人一緒に連行されました。大府では工事用のトロッコにはねられ膝を打ち診療所に行ったが、消毒と包帯をされただけだったと言います。物を取ってはいけないという共産党の厳しい規律があったが、お腹が空いてそばにあったミカンや大根を取って食べたと話しました。
 印山さんも家族も日本政府と企業はなぜ謝罪と賠償をしないのか、いつするのかと訴えました。
 証言者はいずれも5人の死亡者について知りませんでした。今回の訪問で、給料を支払ったとか、十分な食事を与えたとか、帰国時に全員の写真撮影を受諾したなどの地崎組の外務省報告書の偽りもはっきりしました。
 8月の「あいち平和のための戦争展」に劉先生を、9月の第2回慰霊祭には唐燦さんと楊印山さんを招待することにしています。(愛知県連 伊藤充久)

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