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日中友好新聞

2008年9月5日号1面
俳句の源流は中国から伝来
俳人 金子兜太さん

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プロフィール
 1919年埼玉県生まれ。旧制高校在学中に作句開始。1941年から加藤楸邨に師事。東京大学経済学部卒業後、日本銀行に入行。1955年、第一句集『少年』刊。翌年現代俳句協会賞を受賞。前衛俳句、社会性俳句の旗手として活躍。日本現代詩歌文学賞、NHK放送文学賞、紫綬褒章などを受賞。現在、日本芸術院会員、現代俳句協会名誉会長。欧米、中国の俳句普及にも尽力し、精力的に活動している。主な著書に『金子兜太集』(全4巻、筑摩書房)、『漂泊の俳人たち』(日本放送出版協会)など多数。

 現代俳句協会名誉会長の金子兜太さん。88歳のいまも第一線で活躍しています。「俳句」を通しての日中交流や、「俳人9条の会」での活動などについてお話を聞きました。

日本の「連歌」には、中国の「酒令」の影響が

 日本の俳句の源流は中世(12〜13世紀)の「連歌(れんが)」にあります。この時代は、「5・7・5」を発句に「7・7 5・7・5 7・7」と和歌を分けて付け合った「連歌」が盛んでした。この「連歌」は、宋時代の中国の影響が大きかったといいます。
 中国では「酒令」(酒席の余興)として、「7・4・4 7・5・5」調で、詩を付け合う(掛け合い)風習がありました。それを当時の日本からの留学僧たちが持ち込んだものではないかといいます。
 「連歌」は、院政期ころから盛んになりましたが、そのころは、貴族社会のものでした。やがて応仁の乱(1467年)あたりを機に、地下(じげ)といって、庶民化し、次第に発句の「5・7・5」が独立し、有名な江戸期の松尾芭蕉、明治の正岡子規、高浜虚子、昭和の加藤楸邨、中村草田男と受け継がれていきますと、「俳句」の原点と歴史を明快に解明します。

日本の俳句、中国では「漢俳」

 現在の中国では、日本の俳句に当たるものは「漢俳(かんぱい)」という形で歌われています。日本の「5・7・5」に、漢字をあてはめて歌います。
 例えば「高高的駝峰 背着漢朝的夕陽 走在大漠上(高い駝(らくだ)の峰(こぶ)は 漢の時代の夕日を背負いながら 広々とした砂漠を歩いている)」(現代俳句・漢俳作品選集より)といった具合です。歴史は浅く、4年前に漢俳学会が設立されたばかりですが、いまは盛んです。
 1980年に「第1回日本俳人代表団」で中国に行ったとき、パーティーで、「漢俳」が盛んに歌われ、日本の俳句と掛け合いで100句も披露されたといいます。
 金子さん自身は、10回以上の訪中体験があり、中国の詩人・文化人との交流も深く、その1人の林林(りんりん)さん(96歳・元中日友好協会副会長)と、日中国交正常化25周年記念出版『現代俳句・漢俳作品選集』(現代俳句協会発行)に、連名で序文を贈っています。近年は、毎年のように日中俳句漢俳交流会が開かれています。

「俳人9条の会」で記念講演

 金子さんは、太平洋戦争末期に悲惨な戦争を体験しています。1943年、トラック島(日本の委任統治領・珊瑚(さんご)礁の島)に送られます。その島も米軍と戦い、壊滅状態になった日本軍は多くの犠牲者を出しました。
 その時も、俳句が兵士、軍属の心を癒すのにわずかですが役立ちました。その体験を「俳人9条の会」で講演しました。(講演は07年・中経出版刊『酒止めようか どの本能と遊ぼうか』に収録)
 日中戦争についても「南京大虐殺はなかったなどと日本の侵略を認めない、とんでもない話です。率直に謝罪すべきです」と厳しく指摘します。

俳句は父のDNA……

 俳句は「町医者で、俳句を楽しんだ父のDNA」と笑いながら話します。生まれ育った埼玉県秩父郡皆野町は“秩父音頭”が盛ん。幼い頃から「7・7・7・5」の秩父音頭が体にしみ込んでいたといいます。
 日本の俳句人口は1000万人とも。自ら所属する現代俳句協会は会員8000人余。最近は子どもの興味が広がり、特に高校生に人気があります。芭蕉や一茶などの出身地では町おこしに、子規の故郷松山では「俳句甲子園」大会が開かれ、NHKが「俳句王国」を衛星放送で毎週全国に放映するなど、俳句人気は若者をも巻き込んで高まっています。
(お)

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