原題は「林則徐」で、趙丹が熱演した、監督は鄭君里で、「民心は用いることができる」という林則徐の信念を生かした。林則徐のたたかいとともに、民衆の抵抗活動まで描いたところが、中国映画らしい視点だった。
[あらすじ]
1838年の中国は、西方諸国がもちこむ阿片によって人びとは害毒に侵され、銀貨は海外に流出し、清国は苦境にあえいでいた。清朝宮廷で道光帝が林則徐の上奏文を読んで、林則徐を阿片禁止令執行の全権大臣として広州に派遣させた。林則徐はそこで枯木のような阿片吸飲者、ごうまんな外国商人、腐敗した役人たちを見た。その中で親友の両広総督搨ヘや海軍提督関天培などが林則徐を歓迎し、阿片禁止実施に協力を誓った。
林則徐は英国領事エリオットを呼び、英国商人の所有する阿片を差し出すよう言い渡す。エリオットは阿片商人デントの不在を理由にこれを拒否した。逃亡をはかったデントが漁師たちによって捕まえられ林則徐のもとへ送られてきた。これによって外国商人は阿片を差し出した。
1839年6月3日、林則徐は没収した大量の阿片を虎門海岸で焼き捨てた。外国商人に禁止するのは阿片で正当な商売を禁じるのではないとさとした。1840年4月、英国政府は英国商人の利益保障という口実で艦隊を派遣、広州に侵入した。林則徐と関天培の水軍の戦いと広州民衆の抵抗にあって、英国艦隊は矛先を天津に転じ北京をおびやかした。これにあわてた道光皇帝は、林則徐を全権大臣から新疆に左遷し、阿片禁止反対派のK善を広州に急行させて停戦の接衝に当たらせた。関天培は虎門で孤軍奮闘して戦死し、林則徐は去ったが、民衆の組織した「平英団」の旗はひるがえっていく。
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